2019年02月02日

勉強の出来るバカ

こんばんは。遂にラストブログ更新です。テストは終わったものの毎日絶望しかしていない煎茶です。あーもうほんま。過去の事は大体寝たら忘れるタイプなんですが、未来の事についてはかなりネガティブなんです。しかもテストが終わったら次は就活です。ちゃんと就職したい(心の底からの叫び)

そんな事は置いておいて、今日は広い公共の場で自分の意見を好きに述べる事が出来る最後の機会なので自分の思う事を好きに書きたいと思います。前回の記事は各所から「長過ぎる」と言われたので今回は手短に。とはいってもそれなりに書いてしまいましたが(笑)

突然ですが、皆さんは「考える」という語をどう理解しているでしょうか。辞書を引くと『知識や経験などに基づいて、筋道を立てて頭を働かせる』(デジタル大辞泉)、『ある物事や事柄についてあれこれと頭を働かせる。思考する。特に、筋道を立てて問題や疑問を解決しようとする』(明鏡国語辞典第二版)と書いてあります。明確な定義が出来ていなくとも、おおよその人はこういう理解をしていると思います。そうは思わないという方もいらっしゃるかもしれませんが、意味に関しての論争をしたい訳ではないので今回は以上のような意味であるという前提で話を進めます。

言葉の定義が出来た所で本題に入りましょう。とりとめのない事ではありますし当然と言えば当然なのですが、僕はその定義である『知識や経験などに基づいて』という語の前には『自分が今持っている』という語が省略されているのではないか、と感じています。それはそうだ、とそこでお終いにしても良いのですが、裏を返せば目の前の問題や疑問に対しての知識が全くなければ白旗を上げるしかないのではないか、そうでなくとも、もし一部しか知識を持ち合わせていなければ強引な解決策を編み出してしまわないか、と…。

というのも、今回このテーマを最終更新に充てたのは、3年前の阪大合格後、阪大文学部卒の大先輩でもある高校の元担任に挨拶をしに行った時、別れ際にかけられた言葉をふと思い出したからです。国語の先生だけあってその言葉の一つ一つが重たかった記憶があります。

「人はね、誰もが全能神じゃないから自分の知っている範囲でしかものを考えられないの。目の前の課題に対して知識をフル動員させたとしても、それが課題の範囲とズレていたら最適な答えは見つけにくい。全く見知りもしない問題に差し当たったら既存の知識の範囲内で太刀打ちするしかないから、解決に時間がかかる。酷ければ手も足も出ないかもしれない。例えばあなたは数学が苦手だったと思うけど、模試とかでそういう経験した事ない?そういう事を減らしてくれるのが本なの。だから、興味のあるものからで良いから本をたくさん読んで。きっと人生の道標になるから」

担任であった故に僕が数学の定期テストで欠点を取っていたのも実力テストで雑魚みたいな点数を取っていたのも全て筒抜けだったのですが(笑)、今になってこの言葉が改めて身に染みて来ています。例えば大学に入ってレポートを書く時にも、歴史系の授業ならその時代の背景知識がないと良質な回答は提出出来ないと思いますし、実際僕も興味のある法学部専門科目ではない一般教養科目はそれのせいでかなり苦労しました。それのせいでテスト期間はもう地獄でしたね。だって何も考えられないんですもん。冠婚葬祭におけるしきたりとか敬語とかマナーとかも、「事前知識がないとわからない」というその典型的な一例でしょう。

その一方で、逆に「こんなもんどこで使うんや」みたいな知識や経験が意外な所で役に立ったりする事もあったんですよね。実はそれ、担任の言葉通り「ちょっと興味のある」本を読んでいたから発見出来た答えだったんです。確かにそういう機会は数える程しかありませんが、課題との間に一見全く繋がりのなさそうな知見が解決策への有効打になったので、知識・教養・経験が豊富である事に損はないなと再認識しました。若い内に色々やっておけとよく年上の方に言われる時期になっていますが、本当にその通りだと思います。限られた知識でしかものを判断出来ない偏狭な大人にはなりたくないものです…。

ただ、よく言われる事ですが、それらが我々が今までやってきた高校までの勉強の出来とは必ずしも一致している訳ではないと思うのは僕だけでしょうか。いくら勉強が出来ても、手持ちの知識を勉強以外にも活かす力がなければ(勉強以外に対する)問題解決力は皆無に等しいと思います。夏から複数のインターンシップに参加して来ましたが、学歴が高い=課題解決力が高いという等式は必ずしも成り立たないと思います。まあ僕もそう思われているとは思うのですが(笑)自戒です自戒。

そういう事を意識して振り返ってみれば、僕の(ひいては皆さんのも?)3年間の阪吹生活においても知識・経験不足から来る判断ミス等は山のようにあったと思います。もう具体例は一々挙げませんが、今考えれば何故と思うような事も多々…。2018年度に限れば前例のない災難がよく降りかかってきた一年でしたが、次代には我々のミスから学んで職務を全うして頂きたいと思います。きっと不満点等は各々持っているはずです。それを自分の知力を高めて解消していって下さい。

あくまで頭の中での話である事にご留意頂きたいのですが、こういう知識・経験不足からくる問題が色々な団体の活動に浮き上がって来ると結構危ないと思います。一番身近な所で言うと人に対する接し方とか、運営の仕方とか。ギスギスしている団体にはいたくないですよね。音楽団体の演奏会でいうと選曲される曲が巷でよーく聞くような曲ばかりになってしまったり…。後者に関しては、決して悪いとは思わないのですが、色々知っている中でその曲を選んだのか、そもそも知っている曲が少なくてその曲を出して通ったのかでは全然話が違うと思います。常に新しい種類の曲を出していかないと、今後有名な曲しか残らないという事態も考えられなくはないですし。究極的にはどの演奏会に行っても同じ曲しかないという事もあり得ます。だから、絶対に知識(この場合知っている曲数)を増やす必要が常にある。

もうそろそろしつこいですね。まとめに入りましょう。長々と色々書いてみましたが、(自戒を込めて)勉強はそれなりに出来るけど知識とか経験、教養がない、それらの活かし方を知らないがために賢明な判断が出来ない「勉強の出来るバカ」に僕はなりたくないですし、皆さんにもなって欲しくありません。幸い、現代はインターネットもありますし大学には図書館があるし、阪吹には人がたくさんいます。その他にも勉強についても、勉強以外についても知見を蓄積させていく手段は十分過ぎる程に存在するので、そこから知識とか教養を吸い取りに吸い取りまくって「賢い」人間になりましょう。当然ですが勉強を否定しているつもりは全くございませんし我々の本分は研究なのでそちらも頑張らないとだめですよ!(笑)

最後まで説教臭くなってしまいましたが、僕はこういった事に再度気付かせてくれた阪吹、更には阪大はとても良い所だと思っています。総合大学の良い所は多様な人に会える所です。そういった組織に関われるこの学生時代は本当に貴重だと思うので、現3回生に限らずまたどこかでお会いした時にお互い素敵だなと思えるような人になれると良いですね。阪吹は現役、OBに関わりなくそういう人に溢れる団体であって欲しい。僕も大学生活ラスト一年駆け抜けたいと思います。

遅くなりましたが、2019年が皆様、特に阪吹にとって良い年でありますように…。

2018年度木管セクションリーダー 煎茶

posted by 大阪大学吹奏楽団 at 20:02 | Comment(0) | 木セク

2018年09月18日

はんすいっ!

こんばんは。合宿から帰って来たら一気に秋が香ってきましたね。木セクの煎茶です。今回の夏合宿は本当にきつかったです...。

さてさて、ブログリレーも3週目に入りましたが、イベント関連の事はもう前の方々が書き尽くてしまって僕は書くネタを多く持っていないので、最近とある新聞で見かけた詩をきっかけに自分なりに考えた事でも書き連ねようと思います。ちょっと息抜きがてら楽に見て頂けると幸いです。


カニがカニッとしているのは嬉しい
カニがそれを気づいていないらしいので
なおさら しみじみと…

ああ こんな私も私っとしていることで
だれかを喜ばせているかもしれない
私がまるで気づかないとき
いっそう しみじみと…

そう思うこともできるんかなあ
と私は私に胸あつくさせた
(まどみちお『カニ』)


まどみちお、という名前くらいはきっと皆さんご存知でしょう。有名な詩人さんですね。どうしても外部からの評価を気にしてしまいがちな我々に、ありのままの自分でいる方が周りにとっても案外プラス方向にはたらく事もあるかもしれないよ、と訴えているのでしょうか。大学受験時、過去問で韻文や詩が出題されると途端に正答率が下がるタイプだったので、真意は読み違えているかもしれませんが…。

僕は大学卒業後一般就職するつもりなので現在インターンシップの選考等で少々忙しいのですが、エントリーシートを書いていると自分が何をしたいのか、自分は何者なのかが逆によく分からなくなってくるんですよね(笑)時と場合に応じてキャラクターを演じ分けるのはある程度までは全然悪い事だと思っていませんが、就活用の空虚な自分を作っているようで、何だかなあと思って毎日悶々としていました。

そんな時に出会ったのがこの詩です。相手を喜ばせる、益するとまではいかなくとも、例えそれが外向け用の自分でも、その場に自分がいる事で少しでも何かをプラスに持っていけている(かもしれない)と思えば、多少自意識過剰で傲慢かもしれませんが、ちょっと気が楽になったように感じました。全ての人がそう思えるとは考えていませんし、中庸さは必要かと思いますが、そう思ってしまうのも一種の生き抜く術なのかなと。

事実、阪吹にはちょいちょい自己評価が低めで何かと自虐的な人がいます。どうしてだろう、と常々思ってしまいます。決して「自分には長所がない」とか「私がいなくとも代役がいる」とかいう事はないと思いますよ。あなたには「あなたっ」とした魅力がどこかにあって、誰かを喜ばせる力を必ず持っていると僕は思っています。気付いていないかもしれませんが、僕は結構皆さんに助けられている事が多いですよ。身に覚えのない方は多分気付いていないだけです。いつもありがとう。

これは演奏の方にも当てはまると思っています。どんな曲でもtuttiの場所で誰かがいらないという事は絶対にないと思ってますし、one playerやsoloの指示がある箇所でもその1人のために何かしてみるとか、色々出来る事はあるはずです。特にtuttiの場所で「上手な人がいるから私は吹かなくて良いか…下手だし…」とかいう考えをするのはやめてみましょう。少し勇気のいる行動かもしれませんが、150人近くを抱えたメガバンドである我々阪吹の最重要課題、全乗り問題を乗り越えるには必要な勇気ではないでしょうか。誰もが手を抜かず、全員で個人個人が「自分らしさ」を追求していけば自ずと「(今年度の)阪吹らしい」演奏、つまり「はんすいっ」としたものが生まれてくると思います。

でも、一つだけ忘れないで欲しいのは「合奏は他人あってこそ」のものだという事です。自分が他の人より上手いと分かっていても必要以上に自己主張を激しくしてはいつまでたっても全体としての音楽にはならないと思います。音が大きいのは小さいよりマシですが他の人を包めないと何の意味もないし、小さければ他の人を支える裏方になれていて素晴らしいと手放しに称賛される訳でもありません。ハイトーンの音程だって難しいからと言って放置するとかも当然ダメですよね。自分に与えられた役割をこなした上で自由に演奏するように心がけましょう。その調整をするのが指揮者若しくは各セクションリーダーだと思っています。

今回は本当に難しい曲ばかりです。実際、久保田先生曲の楽譜調達時に作曲者とやりとりしていると、本人から「僕の曲はどうやら難し過ぎたみたいで、初演した(オランダ王立海軍軍楽隊の)ファゴット首席の人が困ってたよ」とメールが来て、実際楽譜を見て咽び泣きました。今にも黒い楽譜が襲ってくる夢を見そうです。木管セクションリーダーという肩書きはありすが、奏者として僕も頑張りたいと思っています。皆も頑張ろう…!

長くなってしましましたが今回はこの辺りで。少々理想主義に見えるかもしれませんが、これには皆さんの協力が必要ですので、譜読みの方も確実に始めておきましょう。ぼちぼちハーモニーとか細かい所まで見ていきます。音幹も一丸となって共闘しますので!

それではウヌス君にバトンタッチです!

posted by 大阪大学吹奏楽団 at 22:11 | Comment(0) | 木セク

2018年05月22日

明治の賢人・平成の妖怪

もう順番が回って来てしまいました。半袖が心地良い季節になってきましたね。暑さのせいで楽器のピッチが狂って怒れる木セク煎茶です。今日は少し離れた所から音楽にアプローチしようと思います。ちょっと長めです。

今年は平成30年、西暦にして2018年です。丁度150年前の1868年、日本史上の大事件があったと思います。熾烈な受験戦争を潜り抜けてきた阪吹現役生なら当然お分かりかと思いますが、明治維新の事ですね。まだそこまで深く学んではいませんが、国際政治学・日米関係史を専攻している僕にとっても無視する事の出来ないインシデントです。

僕の個人的趣味事情はさておき、最近それに関連して福澤諭吉の「学問のすゝめ」を読み返しました。以前読んだのは確か小学生の頃だったので当時は全く意味が分かっていなかったと思いますが、再読すると学問を修めようとしている今の自分に足りていない所を悉く指摘されていて大変耳が痛かったです...。ここまで先見の明がないとお札には描いてくれないのか...。まぁそれも置いておいて、本日紹介したいのはその中の一文です。

今わが国の文明を進むるには、まずかの人心に浸潤したる気風を一掃せざるべからず。これを一掃するの法、政府の命をもってし難し、私の説諭をもってし難し、必ずしも人に先だって私に事をなし、もって人民のよるべき標的を示す者なかるべからず。

要約すると「文明を発展させたいのなら政府に頼ってばかりいずに個人個人が自覚を持て」といった感じです。確かにこれは「お上」ばかりを意識する日本国民の卑屈な態度を批判し、一国の独立のあり方を論じたスケールの大きい話ですが、これが活きる所は今の我々の音楽活動の中にもあると思い、今回のブログに掲載しようと思いました。

畢竟、僕が言いたいのは奏者が一人一人自覚を持って音を作るべし、指揮者の顔色を伺ってばかりではだめだ、という事です。自分が【指揮者からの指示待ち状態】になっていないかもう反芻してみましょう。ここはどう吹きたいかとかここは誰を中心に歌えば良いとか、そういう事を自分では考えずノープランのまま、連符等はどうにか回すようにして指揮者(音楽系幹部)の指示を貰いに行くために合奏に出ていませんか。そうではない事を祈っていますが、先日のプレコンを客席で聞いていると僕にはただ音が並べられているだけの無彩色の音楽に感じました。

ところで!僕はテレビをあまり能動的に見るタイプではないのですが、皆さんはNHKの「LIFE!人生に捧げるコント」を視聴された事はございますか。その中にムロツヨシ演じる平成の指示待ち妖怪、「妖怪どうしたろうかしゃん」というキャラクターが出て来るコーナーがあります。指示があれば(躊躇いつつ)何でもするが、指示がなければ自力では何も出来ないこの妖怪に面白おかしく無茶振りをするコーナーで、僕はそれが好きなのですが、実際に吹奏楽で奏者がこの調子だと指揮者が一から十まで全部指示せねばならず大変労力がかかってしまいます。今の阪吹はまさにこの状態に近い所にあるのではないかと感じます。

確かに、完全指揮者独裁も合奏の一形態として100%悪いものだとは思いません。奏者に有無を言わさず指揮者の思っているように進行させれば良いから、その方が曲を作る上で効率が良い。実際はそうでもなかったとも言われるようですが、カラヤンとかはそのタイプでしょうし、かく言う僕も高校時代は学生指揮者をやっておりまして完全にそちらのタイプでした(笑)(反省してます)

しかし、どんな優秀な指揮者にもやはり見落としはあるものです。その防止のために我々金木のセクションリーダーがいると言っても良いでしょう。個性がぶつかり合う中で音楽をまとめ上げるのは大変難しい所為ですが、奏者に責任を有させて自由に演奏させると、指揮者が思いもしなかった美麗な表現の仕方だって全体に活かせるかもしれません。最終判断は指揮者の手に委ねられるべきだと思いますが、その可能性を生み出すのは奏者一人一人だ、指示待ちのまま自らそれを殺しに行くな、と僕は言いたいのです。民主主義って政治学的にも結構難しいんですよ。

我々はプロ奏者ではないので、どうしても出来ない事はあります。連符とかね。ですがそれを言い出したらもう何も話が始まりません。連符等の技術的な箇所は練習すればその内出来ます。一方、そういう意識に関しては誰かが火を点けなければ爆発しないと思っています。僕が火付け役になっても別に悪くはないと思いますが、火付け役はたくさんいる方が爆発までの時間は短いのではないでしょうか。

ともかく、まずは全員が「自分がお手本になってやる!」くらいの心意気を持ってみませんか。それを後輩や他の奏者も真似してみましょう。きっともっと音楽が楽しくなるはずです。勇気が必要な難しい一歩ですが、僕を筆頭にパートリーダーや3回生、トップ奏者が引っ張っていけると素敵だと思います。最近随所にその兆しが見て来ていて大変嬉しく思っています。あと2週間ちょっとですが気合入れていきましょう。音楽は気合です。

何だかとても説教臭くなってしまいましたね。ここが僕の悪い癖です。でも、今の阪吹に一番足りていない所はこの辺りだと思います。皆で頑張りましょう。
それでは今回はこの辺りで。ウヌスくん、出番でーす!


※挿入文は下記より引用
https://ja.wikisource.org/wiki/学問のすすめ

posted by 大阪大学吹奏楽団 at 23:46 | Comment(0) | 木セク